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気まぐれブログ 上杉昇さんの曲も想いも沢山の方に伝えたい

上杉昇さんインタビュー【デジタルAERA】

元WANDS上杉昇「ロックと呼べない音楽は自分の恥部だった」 “世界中の誰よりきっと”の大成功と、時を経た「今」胸にある中山美穂への感謝

「もっと強く抱きしめたなら」「時の扉」など数々のヒット曲で一世を風靡したバンド、WANDS。そのボーカルとして脚光を浴びながら、上杉昇さんは成功のただ中で「本当にこれでいいのか」という違和感を抱えていた。1991年のデビューから6年、突然の脱退——音楽との出合い、華やかな成功の裏で人知れず抱えてきた葛藤、そして時を経たいま胸にある思いとは。

 

 

「本当にこれでいいのか」

 横浜の専門学校の帰り道にあるジュークボックスで、ガンズ・アンド・ローゼズの「ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル」の映像を初めて目にしたとき、ボーカルのアクセル・ローズの、痩せていて少し女性的な部分が見えつつも激しい、という独特な感じが衝撃的で、「これになろう」と思いました。

 ガソリンスタンドでのバイト中、昼休みに音楽雑誌を見ていたら、その中にビーイング(現・B ZONE)のアーティスト募集のページがあって、出身アーティストにLOUDNESSと書いてあった。ラウドネスは当時、仲間内で一目置かれていて、「これはもう、ここに行くしかねえな」とすぐに応募したんです。

 19歳のときに「ロックバンドでデビューが決まったよ」と言われましたが、自分が志していたハードロック、ヘビーメタルとは違う感じがする、と懐疑的に思っていました。1991年に「寂しさは秋の色」でWANDSとしてデビューした直後に、「自分がやりたいものとは違う」と気づきました。でも、10代の僕が「本当はこれがやりたいんだ」と言えるような空気も機会もなかった。

 

 その後、「もっと強く抱きしめたなら」(92年)、「時の扉」(93年)、「愛を語るより口づけをかわそう」(同)がミリオンヒットとなりました。歌っているときは真剣に、誠実に取り組んでいましたし、書いた詞が評価されて売れたことも、純粋にうれしく思いました。けれど「本当にこれでいいのか」と、複雑な思いは拭いきれなかった。わずかな抵抗として、歌詞を書くときに、ロック的なニュアンスをどこかに残してやろうと常に考えていました。

 

僕を作り上げてきた「世界」を終わらせたかった

 92年に中山美穂さんとコラボレーションした「世界中の誰よりきっと」が大ヒットして、「演奏 WANDS」として同年のNHK紅白歌合戦にも出場しました。自分が世の中に知られるきっかけとなったのは、間違いなく美穂さんとの曲があったからです。一緒に歌ってくださって、恩人のように感じています。

 2024年12月に54歳で急逝されたときはびっくりしました。紅白のとき、僕はバックバンドの扱いだったので、「もしMCに振られたら助けてください」とお願いしていたんです。実際にMCに振られたときには助けてくださって。この歌だけでのお付き合いでしたが、芸能界の先輩として守ってくださったし、今でも非常に感謝しています。

 

 ただ若かったあのころは、ロックと呼べるようなものを表現できていないと、自分の恥部のように思ってしまっていた。世間のイメージと僕自身の考えのギャップを消化しきれなかったんです。

「世界中の誰よりきっと」の影響力はものすごく強くて、このイメージを塗り替えるには、同じフレーズを使ってロックといえるようなものを残すしかないと考えました。だから紅白から1年半後の「世界が終るまでは…」は、タイトルを先に決めたんです。それまでの、望んでいなかった僕を作り上げてきた「世界」を終わらせたかったから。

 その「世界が終るまでは…」を出す直前の94年4月には、敬愛していたNIRVANAのカート・コバーンが亡くなり、自死ともいわれました。彼の曲や悲鳴のような叫びが、妙にリアルに生々しく感じて、「何やってたんだろう、俺は」「自分のスピリットを何も残せていない」と。それが97年のWANDS脱退を決めるきっかけでした。

 

 脱退後、解放されたという感覚もあったと思いますが、それまで作り上げてきたものがあまりにも大きくて。それを払拭する作業がずっと続きました。“売れ線”音楽みたいなものの否定をずっとやっていましたし、それまでの長髪から、短髪、ひげ、太る、スキンヘッドと、自分のビジュアルを変えていったのも、イメージを固定されたくなかったからでした。

 

 

「世界中の誰よりきっと」を歌うように

 過去を払拭できたとはいまだに思っていません。ただ、2006年に猫騙というバンドを始めたころ、考え方に変化があって。自分が最高のパフォーマンスをすれば、おのずと人は集まってくるんじゃないかと。ひたすら全国の小さなライブハウスを回って、いろんなバンドと対バンしても、負けたと思ったことが一度もなかった。自信がどんどんついていったし、「WANDSの上杉」ではなく、“本来の自分”が出せていたこのころは本当に楽しかった。表現者として生き生きとやれていたから。

 今は過去を払拭するフェーズからはまた変化しました。これまで、海外からWANDS時代の曲を歌ってほしいというオファーをもらうこともありましたが、ためらいや抵抗があり、すべて断ってきました。それでも、熱心に日本まで何度も直接会いに来てオファーをしてくださる方もいた。熱意に押され、一度きりのつもりで受けたんです。コロナ禍前のことでした。

 

 実際に中国に行ってみると、自分の歌を聞きに来てくれた人の多さと、みんなが一斉に日本語で一緒に歌ってくれる姿に感動しました。

 そのころから、WANDSで自分がやってきたことをすべて否定するのではなく、苦しみながらも自分なりに頑張っていたという事実や人に与えてきた影響を受け入れ、今を支えてくれているファンとのつながりへの感謝も芽生えてきた。30年以上歌ってこなかった「世界中の誰よりきっと」も、美穂さんや多くのファンへの感謝の気持ちが募り、今では日本でも歌うようになりました。

 WANDS時代にあの世界観を書いていた自分も本当だし、今の自分も本当。本来、音楽は商売にするものではなく芸術で、誰かにわかってもらおうとして作るわけじゃない。それでも、僕にはそういう時期があって、今がある。

 今年の年末にはデビュー35周年を迎えますが、ロックミュージックに翻弄された35年間だったなと思います。今は、昔のようにハードロックやヘビーメタルといった括りにこだわらず、ただ純粋に、自分の声が生きる曲を歌いたい。50歳を超え、これから“アンティーク”になっていくと思うので、ただのガラクタにならないように、自分に磨きをかけて、ファンの方々の期待に応え続けられたらいいなと思っています。

(構成/AERA編集部・秦正理)